ゆじらぶろぐ

構成作家。ライター。文章と言葉で誰かの楽しみを作りたいです。

理解できない人たちがいる大切さ

以前書いた
プラス・マイナス、ジャルジャル銀シャリ
の記事の中で

 

https://yujiliko514.hatenablog.com/entry/2020/11/22/151640

 

ジャルジャルのコントに関して…
『理解できない人たちがいることの大切さ』について、また別の機会で書きますと言ってしまったので記事にしてみようと思います。

『よく分からない』『理解不能』と言われてしまうことは、どんなエンタメの世界にもあります。

例えば、映画を観に行って『最後まで意味分からんかった』と首を傾げながら映画館を後にしたことは誰でも1度くらいあると思います。

当然、ほとんどの場合でネガティブな使われ方をします。
楽しめなかったわけですから、ポジティブな意味として捉えることは難しい。

だけど、この『理解できない人たち』の存在がエンタメの世界には重要。

その意味…そして、なぜ重要なのか?

少し噛み砕いて記事にさせていただきます。

よく表現の世界には
「分かる人にだけ分かればいい」
そんなことを公言する人もいる。

尖った思想であり、若い頃に言いがちな言葉。
こういった強気な時期もいいですが

今回のテーマは、そういった「分かる分からない」のレベル論ではなく…

理解させようと合わせにいくことの弊害。

相手に合わせにいくのではなく
相手側に合わせてもらう意識。

私は、ここをポイントとしています。


私にも背伸びして理解できないものを理解しようと頑張っていた時期がありました。

例えば小学生の時に観ていた『ダウンタウンのごっつええ感じ』などは、その典型かもしれない。

 

10歳ほど年上の人たちがゲラゲラ笑っている様を見て必死に食い下がろうとしていた。

伝説的お笑い番組として歴史に名を刻むほどに
当時のお笑い好きの若者は熱狂していたとは思いますが
その一方で…
まだ幼さの残る世代にはイマイチついていけない現実もありました。
どう考えても小学生くらいの経験値で笑えるものではない。
「これを観て笑えることがカッコ良い」
ムリヤリそんな尖り方をしていた記憶がある。

だが、もしもあの頃のダウンタウンさんが
ごっつええ感じで繰り広げていたコントを小学生にも分かるように合わせにきていたら…
想像しただけでもゾッとする。

そんなことするわけないのは当然分かっておりますが…

ダウンタウンさんは誰にも合わせることなく
自分たちの面白いと思っている世界を表現されていた。
だからこそ、ごっつええ感じは今なお伝説として語り継がれている。

日本映画史に残る屈指の名作『男はつらいよ』だって、私は小学生の頃から観ている。
当時、その面白さの本質など理解できるはずもない。
だけど、その経験が大人になってから活きている。
理解しにくいものを背伸びして分かりにいくことの大切さ…
それを繰り返すうちに
いつのまにか感性は磨かれ、大人のエンタメを理解できる目が養われる。

以前、寿司屋に行ったとき、サーモンばっかり食べている中学生くらいの男の子を見たことがある。
サーモンを食べ終わったら、またサーモンを注文する。それを食べ終えたら、またサーモンを注文する。
隣にいるその子の親は気に留める様子もない。
おそらく、いつものことなのだろう。

「好きなもん食べてるんやから放っておけ!」
と言われることは分かりますが
まだ、味を理解できなくとも、他の寿司ネタも食べてほしい。
うるさい奴だと煙たがられることは百も承知ですが、理解できない世界にも手を出さなければ世界は広がらない。

現在、YouTubeなどネットメディアの勢いが増していますが
好きなものばかりを選んで観れてしまうので、全く背伸びをする必要がない。
ようするに、寿司屋でサーモンばかり食べられる環境。
今の若い子たちは、ごっつええ感じのような背伸びを要するソフトと偶発的に出会う可能性が非常に低い。

どうしても居心地の良い場所に人は留まる。
わざわざ理解できない場所に飛び込む必要もないのがネットメディアの世界。

しかし、テレビはテレビで
どのようにしたら万人に伝わるか…?
それを繰り返してきた歴史からカウンターパンチを受けた。
テレビは不特定多数メディアであると同時に
時間帯次第では幅広い年代層に観てもらえることを意識せざるをえない。

それはそれとして1つのカタチなのだが
合わせにいくばかりだと、『作品に魂入れず』に見えてしまう場合もある。
本当に表現したいものが何なのか?
どうしてもボンヤリしてしまう。

だから一概にどっちが良い悪いとは言えないのですが…

今回伝えたいことの主点は

合わせにいくことは自らのストロングポイントを消すことと同義語。

理解できない人たちが存在しているぶん
強く刺さる人たちも存在する。

以前の記事でジャルジャルのコントを例には出したが
実際、ジャルジャルのコントで腹を抱えて笑う人は多い。
ハマる人にとっては底無しにハマっていくほどに
鋭すぎる感性と独特のセンスがある。

その熱狂的にハマる人を生み出す構造の下地には
ジャルジャルのコントを理解できない人たちの存在がある。

理解されにくいほどに先細っているからこそ
理解している側のパワーも強くなる。

理解できる人がセンスあるとか、理解できない人がズレてるとか
そういう話では一切なく…
これはエンターテイメントに絶対必要な側面だという話。

その方法にもいろいろ種類はあるが
これは感性や感覚における先細りの話。
若者しか知らない言葉を使ったり
今、旬なアーティストの名前を使ったりすることを先細りとは言わない。

そういった世代間のギャップとして理解されにくいものではなく
センスを合わせにいくのではなく
センスは合わせにきてもらう意識。

ここだけは大切だと思います。

マーケティングを分析して合わせにいく。
ヒットしている人の真似をして追随する。

ビジネス的には、それが正解なのかもしれませんが

理解できないお客さんを
勝手に生んでしまう表現者の中に
ホンモノが混ざっている。


サーモンは一貫にしておいて、他のお魚も試してみましょー。