ゆじらぶろぐ

構成作家。ライター。文章と言葉で誰かの楽しみを作りたいです。

全員に敬語を使うことで人生が好転する話

全ての人に敬語を使うと人生が変わる。

敬語は日本人特有とも言われますが、大人になっても敬語を完璧に使いこなせるわけでもなく、「それは敬語になってない」なんて注意を受けることもある。

「了解しました」は敬語ではなく
「承知いたしました」が正解。

「ご一緒します」は敬語ではなく
「お供します」が正解。

「どうします?」は敬語ではなく
「いかがなさいます?」が正解。

うんうん、まあそうかもしれんけど「面倒くさいなー」とも言いたくなる。

だが、この敬語というやつはなかなか侮れない。

もし、本当に敬語が日本人特有だとすれば、敬語を使えることは日本人に生まれたメリットとも考えられる。

そして、それは長い目で見た時…劇的に人生を好転させる言葉使いだという真実を私は知りました。

しかも、上記に記したような正しすぎる敬語を使う必要はなく、何となくの敬語っぽさを日々使っているだけで人生が変わる。
敬語っぽい言葉なら、日本人のほぼ全員が使える。
それなら、日本人に生まれたメリットを存分に使いたい。

これまで私は相手の年齢によって敬語、タメ口を使い分けている傾向があった。

ちなみに芸人さんの場合は、確実に芸歴が全て。
年齢は一切関係なく、業界に入った順番が先輩後輩の関係を作る。
先輩には敬語。同期、後輩にはタメ口。と、基本的にはその線引きが分かりやすい。

おそらく、会社勤めの方たちも先輩後輩は明確だと思います。

だが、私のようなフリーランス構成作家の場合は「何年目」と明確にキャリアを数えることは難しいし、相手のキャリアも分からない場合がほとんど。
だから、年齢を聞いてタメ口と敬語を何となく使い分けてきたのだが…

持論だが、断言しよう。

全ての人間に敬語を使えば人生は好転する。

もちろん、家族や恋人は別。
友達は微妙。これまでずっと仲の良い友達なら、いきなり敬語はおかしいかもしれませんけど、新規で知り合えば敬語が良い。どれだけ年下でも。

人生を悪化させる原因は間違いなくストレス。

ストレスがあるから人は悩む。
ストレスで老けこんだり、眠れなくなったり…
もちろん、良いことなど何一つない。

しかし…

目の前にいる全ての人に敬語を使うだけで、ストレスの二大巨頭を少し軽減できる。

もちろん「少し」だけど、少しでも積もり積もれば大きい。
ストレスなんて百害あって一利なし。
可能ならば、できるだけ取り除きたい。

では、敬語を使うだけで、人生の何がどのように好転するのか?

細かく、説明させていただきます。

まず、ストレスの二代巨頭の1つ目。
人間関係だ。

確実に悩みごとランキングの上位に食い込むのが人間関係。
上司との軋轢…職場の人間とソリが合わない…そういった悩みに敬語の効果があるかと言われれば、それはない。

だが、なんとなく飲み屋などで知り合った若者、ママ友、職場の後輩など、本来敬語を使う対象にはならない人たちに敬語を使うことで人間関係のストレスは少し軽減される。

その理由を考える上で、まず着目したいのが、そもそもタメ口とは何なのか?タメ口の効果、意味から考える必要がある。

「もう今からタメ口でいこうよ」という提案をする人がたまにいるが、それは「もっと仲良くなろうよ」「もっと距離を近づけようよ」と、同義語である。

それはそれで何の悪気もなく、ポジティブな意味なのは理解できるのだが…
この「もっと仲良くなる」「もっと距離を近づける」という行為が時にクセモノになる。

人と距離を近づけて仲良くなること自体は素晴らしい。
だが、その素晴らしさはトラブルを生みやすい状況と表裏一体。

タメ口になることで人はフランクにもなり、心も開きやすくなる。
ゆえに、悩みごとや過去の話などもするようにるなる。

様々なことをお互いに共有し、そうやって人は仲を深めていく。

しかし、深まった関係性は同時に失言を生みやすい。
相手の懐に入ることは、踏み込んだ発言を誘発する。踏み込んだ発言の中に、失言は存在している。

失言をされるストレスはタメ口を使い合うことから生まれる。

では、敬語を使う間柄なら失言はないのか?と聞かれれば、そんなことはない。敬語同士の関係性でも失言は存在する。

だが、タメ口の失言と敬語の失言では、ほとんどのケースで種類が異なる。

敬語の失言に関しては、確信犯である可能性が高いのだ。

一概には言えないが、敬語の間柄で失言が出てきたということは、そこに至るまでにそれなりの理由がある。
何かしらのフラストレーションを溜め込み「今日は言ってやろう」と、どこか決めた上で、あえての失言を発している場合が90%だと思われる。

しかし、タメ口の失言に関しては『うっかり失言』が多い。

そんなつもりはなかったんだけど…と、後からなるパターンは、ほとんどがタメ口の失言から生まれている。

もちろん敬語の失言もきついが、確信犯で放り込まれたとすれば、こちらにも非はある。
何かしらのストレスを相手に与えた結果、返ってきたカウンターパンチならば納得せざるをえない部分もある。

しかし、『うっかり失言』はアクシデントである。
人によって地雷は異なり、自分にとっては失言でも他の誰かにとっては失言だと思わない場合なんて多々ある。

例えば、普段は全くメイクをしない女性がいたとする。その女性がめずらしくメイクをしてきたので「あっ、今日メイクしてきたんだ」と話しかけ、「うん、今日はメイクしてきたんだ」という言葉に対し「あんまり変わんないね」と返したとする。

さあ、これは失言でしょうか。

あんまり変わらない…えっ、化粧しても意味ないってこと!?と捉える人もいる。

あんまり変わらない…じゃあ、すっぴんとメイクしてるのが、ほぼ同じってことなら嬉しい!と捉える人もいる。

全く悪意はなくても、失言に転がったり褒め言葉に転がったり…いちいち面倒くさい。

だが、こんなしょうもないことで心を痛めることが、いちいちストレスになる。

この例えだが、おそらく敬語同士の関係性なら生まれなかったと推測される。

「あっ今日は、お化粧されたんですか?」
はあったとしても、その後の「あまり変わりませんね」は敬語ならば出てこない。

敬語ならば「いいですね」など、無難な言葉になっていく。フランクな言葉使いをする間柄だからこそ、「あんまり変わんないね」が出てくる。

『失言される側』としてのストレスだけでなく、『うっかり失言をしてしまう側』だってストレスになる。

こういった、うっかり失言にまつわる諸々の面倒を回避できるのが敬語の力。

それと、もう1つ。

タメ口から誘発するのが頼まれごとである。

「新しくパソコン買ってんけどさあ、ちょっと家まで設定しにきてよ」

「海外行くんだったら、日本より安いからこの財布買ってきてもらっていい?お金は後で渡すから」

ごめんなさい。面倒くさいんだわー!

こういった頼まれごとも敬語の間柄からは生まれにくい。

言葉使いのフランクさは人間関係のフランクさにも反映されていく。

頼みごとをできるほどの関係性ではないな…といちいち頭で考えるのではなく、人は感覚で気がつくものだ。
その感覚を植えつけるのは、普段の言葉使いの要素が多分に大きい。

そう、失言にせよ頼みごとにせよ…

「この人にはここまでのことは言えないな」
「この人にはここまでのことは聞けないな」

それを肌感覚で人にお知らせする装置が敬語なのだ。

敬語は人間関係の中で起こりえる
些細な面倒くささから身を守る盾になる。

そして、ストレスの二大巨頭、2つ目。
お金だ。

「お金がない苦しみは人生で1番つらい」と、メンタルの専門家に聞いたことがある。
たしかに、お金がなければ人は生きていけない。
今の時期は、コロナショックでお金に困る業種の方もたくさんいるだろう。
私だって例外ではない。本当にお金のストレスは心身ともに、とてつもなく疲弊する。

もちろん、ストレスの1番手は健康だと思う。
何事も健康第一なのは間違いない。

しかし、その健康を維持するのでさえも、お金を必要とする場面は多い。
ゆえに、お金のストレスは人生の全てに影響する。

だが、敬語とお金…なんの関係があるの?
なぜ、全員に敬語を使えばお金のストレスが少し軽減されるの?
という疑問は誰もが持ちそうだ。

敬語を使うことで商売がうまくいく?
敬語を使うことで取引先に気に入られる?

いや、それは知らない。
知らないというか、そういった関係性は基本敬語だと思う。

私が冒頭で言った「年上なら敬語」「年下ならタメ口」という私の敬語の使い方。

これが、お金と関係していくという話である。

例えば、仕事相手でも知り合いでも、年下とゴハンに行けば私はタメ口でしゃべる。
ゴハンに行った年下の相手は私に敬語を使う。

そして、支払いの時…
どうしても一方的にタメ口を使っていた私が全額を支払う流れになる。

そう、自分がタメ口で相手が敬語だと奢ることに何の違和感もなくなる。

この積み重ねはバカにできない。

ケチっぽいけど、ケチで言っているわけじゃない。(なんかダサい)

よく考えたら、直属の後輩でもない、弟子でもない。キャリアも何年同士か分からない。

年齢が上だというだけで、毎回全ての支払いをするのって実際どうなんだろう?

だけど、そんなこと言えるはずもない。
お会計の時に「割り勘でいい?」なんて言えるはずがない。
そんなことを口走った時点で、めちゃくちゃ陰口を言われる未来は確定する。

しかし、これがお互い敬語だったらどうだろうか?

「半分払いますよ」「大丈夫ですよ。僕出しますから」「いやいや、割り勘でいきましょうよ」

お互い敬語でなければ、こういったやりとりは生まれない。

相手にタメ口を使っていることで『先輩後輩感』もしくは『上下関係』が擦り込まれてしまうのだ。

この後輩感が年下サイドに擦り込まれれば、「ごちそうさまです!」という言葉が自然に出てくるようになる。

この感覚を自然と生まないことが、全てのお支払いを回避する道筋となる。

言ってて情けなくなってきたが…
本当のことだから仕方がない。

良いカッコするわけではないが、私は今までめちゃくちゃな額を奢ってきた。

キャリアは同じくらいでも相手が年下ならば、基本的に私はタメ口を使いながら奢ってきた。

特に芸人は芸歴が明確だ。
私のキャリアと比較した時「あれっ、この子先輩やん」と、気づく場合もある。
私のほうが少し年上だけど、この芸人はキャリア的には先輩に当たる。
それが分かった場合でも、私はあえてタメ口を使い続けた。
なぜなら、私が全額支払いをしてあげたかったからだ。
いきなり「すみません!僕、後輩でした」と言われても、相手は困るだろう。「えっ!じゃあ支払いは全額オレ?」と思わせるのも忍びない。

逆に気を遣って私はタメ口を使い続けてきた。
気持ち良く奢ってもらってほしかったからだ。

しかし、結婚すれば、そこまでお金をボンボン使うことも難しくなる。
こういった交際費は本当バカにならない。
4、5人連れていって数軒飲み歩けば、10万近く使う時もある。

もちろん、生きたお金は大切。節約ばかりが素晴らしいとは全く思わない。

だが、実際にお金が出て行っているのは事実。

これは、お金を貯めておくのなら…という話。

さらに言ってしまえば、年齢は時間の経過と共に絶対上がっていく。天地がひっくり返っても、これから年齢が下がることはない。
ようするに、時間が経てば自然と周りは年下が多くなる。

年下にタメ口を使っていると、奢らなければいけない場面ばかりで人生が埋め尽くされる。

そうなった時に後悔しても遅い。
早めの段階で、年下にも敬語を使うクセを作っておくべきなのだ。

「たくさんお金を使っていると、あとで返ってくるから」みたいな成功者っぽい言葉は一旦置いといて…
これは、お金を使わない方法として、敬語が威力を発揮するという話。

実際、今は前代未聞とも言える不測の事態となり、散々奢ってきて後悔している人も少なくないと予想される。

敬語は交際費の出費を防ぐブレーキになる。

敬語を使うことくらいで、ほんのちょっとでもストレスを軽減することができるのならば、それに越したことはない。

良くも悪くも私たちの人生を振り回す
人間関係とお金。

この2つは一生ついて回る。長い目で見たとき…敬語が自分を助けてくれる可能性がある。

今日から知り合う全ての人たちに敬語を使ってみれば、少し人生が好転するかもしれません。

お分かりいただけたでしょうか?
ちなみに、これも敬語じゃないらしい。
正しくは
『ご理解いただけたでしょうか?』

あー、面倒くさ!

けど、敬語は素晴らしい。

 

M-1グランプリ論〜人気者を批判する恥ずかしさ〜

M-1の準々決勝の動画がGYAOYouTubeなどで公開されており、非常に有意義な時間の潰し方ができております。

各漫才師たち、驚くほどネタのクオリティは高く、様々な手法を駆使し、M-1に賭ける熱い気持ちがステージから溢れ出ております。
本当に見応えがハンパじゃないです。

やっぱりM-1はスゴイなと…シンプルに思わせてくれるのですが

ちょっと気になることが一点…

YouTubeに上がっている準々決勝の動画、
人気者の漫才動画にバッドマークの数が多い。

ん?気のせいか?と思い、他の人気者の動画をチェックしても、明らかにバッドマークが多い。

これは人気者や第7世代と呼ばれている漫才師たちに対してのアンチ活動の一環なのか…

以前、アンチを都合よく使うことに対しての記事をnoteに書いたこともありますが、人気者のM-1動画にバッドマークを押す行為は本当のアンチによるものが多いだろう。

 

https://note.com/yujiliko/n/nac468f1e2702

 


ハッキリ言わせてください。

人気者を批判するのはカッコ悪いぞ。

そもそも、人気者が出来上がっていくまでの道のりを考えたことあるでしょうか。

いきなり宝くじが当たったように捉えてないですか?

人気を獲得できることは、どんな世界であっても評価されるべきです。

人気なんて出したくても出ません。
芸人なんて人気者になりたい人だらけです。
当たり前です。
誰だってキャーキャー言われたいに決まっています。

だから、人気が出るのは才能であり実力です。

みんながやりたくてもやれないことをやっているわけですから。

「あれはただの顔ファンでしかない」
など、見た目で判断することに対しても、お笑いファンの人はやたらと厳しい。


でもね、もし顔ファンだったとして…それがなんでダメなの?

だって、観てる人からすれば、ただの娯楽ですよ。
なぜ、観てる側が縛られないといけないの?
どう観るかまで自由にしちゃダメなの?
いくらなんでも息苦しすぎないか。

さらに言えば、見た目だって芸の一部でしょ。
それを活かして面白く見せる工夫もあれば、その華やかさだって1つの武器でしょ。

じゃあハゲネタは?
ってことにもなります。

それぞれにそれぞれの特徴を活かして何がいけないのか?

もちろん、ネタの好みはあります。

「自分には合わない」
「全然笑えない」

それは自由。


だけど、わざわざバッドマークは押さなくていいよ。

これは、お笑いマニアの1番悪いところですが
テレビで売れている人や女子人気が高い芸人への偏見が強い。

例えば、今回のGYAOM-1動画で実施されていたワイルドカード
再生数の多さで決まるみたいなシステムですが、これでもし人気者や第7世代が勝ち上がったとしたら…

熱いお笑いファンが目も当てられないほど憤慨することは想像できる。

「はい組織票!」「M-1終了!」

とか、SNS等々で書き殴るのでしょうけど
気づいてましたか?

いつのまにか、それは逆差別になっているんです。


本当に実力があったとしても人気者は認められないということ。

真のお笑い好きなら、そこはフラットに見ないとダメでしょ。

「フラットに見て面白くないんだよ!」
って言う人もいるでしょうけど
それはただの好みの話。

あなたの好みは正解じゃない。
お笑いマニアは、お笑いに詳しいかもしれないけれど素人なんです。

熱いお笑いファンだとしても、ただの1人の素人にしか過ぎません。

たくさん再生されて1位になれば誰も文句のつけようのない勝ちなんです。

M-1は予選からプロの審査員が見ています。
審査結果に対しても、いろいろ言いたい気持ちは分かりますが、プロの見立ては間違いないのです。

なぜ、プロの見立てが間違いないのか?

本来、面白いものに優劣などつけられないからです。
優劣をつけられないものに優劣をつけるのがM-1グランプリ

そりゃ、「これで準々決勝落とされたの!?」って驚いてしまう面白ネタは僕から見てもありますよ。あって当たり前です。

でも、それが好み。
私も一応プロですが、プロの中での好みだって千差万別。

好みの差はあっても、プロの審査員がジャッジして勝敗を決めていくのがM-1のルール。
そのM-1ルールに則っているだけの話。
だから、M-1という大会においてはプロの審査が正解。

もっと言えば、M-1の決勝に関しては
群雄割拠の芸能界、お笑い界を自らの能力で勝ち上がってきた笑いの一線級の審査員が並び、都度都度点数を出して責任を持ってチャンピオンを決めます。

「もうこの人たちの好みに合えば、それが正解」

その単純明快かつ有無を言わせないストロングスタイルがM-1グランプリの基盤を支えている。

ある意味、ミシュランの調査員が覆面調査員ではなく、名乗り出て料理を品評しているようなもの。

それだけの説得力の上にM-1グランプリは歴史を積み重ねてきた。
ゆえに、別格であり夢舞台なのだ。


そんななか、M-1でプロのジャッジが入らないのがワイルドカードと敗者復活戦のたった2つ。

1つの大会を通して、プロの判断と一般の判断。
ちょうどいいバランスだと個人的には思います。


だから、人気者だからどうとか…女子ウケだからどうとか…本当に失礼な話だ。
そんなちっぽけなことには全く意味がない。

知名度があるメリットもあれば、知名度がないメリットもある。

いちいちカリカリして観るものではない。

出場漫才師は真剣。審査員も真剣。スタッフも真剣。

それでええと思います。漫才やもん。お笑いやもん。

観てる人は気楽に楽しんで、友達や家族とワーワー盛り上がったらいいと思います。

売れていない人に日が当たる。
それは最高のM-1ドリーム。

すでに売れている人が漫才に全てを注ぐ。
それもM-1の魅力であり魔力。

誰が勝っても、誰が負けても

「やっぱりM-1おもろいなあ…」

「漫才師ってカッコいいなあ…」

それでいいんです。

だって、フラットに観れば実際そうなるんだから。


そして、人気者には人気者になる理由もある。
それは絶対的に表現者として実力の一部。
魅力があるから支持されている。

ただ、カッコいいだけで勝てないこと。
ただ、人気があるだけで勝てないこと。
ただ、売れているだけで勝てないこと。

アンチにとやかく言われなくても
その厳しさを1番知ってるのは舞台上で血の汗流して戦っている当の本人たちなんだよ。

最後に、まとめますと
人気者を色眼鏡で見ないほうがモテるんじゃねーかと。モテたほうが人生楽しいんじゃねーかと。

わかんねえけど。

アホみたいな結論で終わりまーす!

 

 

 

YouTubeで子供使ってお金稼いだ結果…背負い続けるカルマ

よそ様のことなので、どうでもいいと言えばどうでもいいのですが
人の人生を大きく左右するような生き方には一石投じておきたい。
ましてや子供ならば、なおさら…

 

テーマは
ユーチューバーが自分の子供をYouTubeに出して、お金稼ぎをすることについて。

賛否あるとは思います。
世の中が否定意見だけなら倫理的に許されず、その時点でアウトだろう。

しかし、何でも発信できてしまう今の時代
腹を括ってしまえば、どんなやり方もできる。
子供をガッツリ出演者にすることはYouTubeにおいてスーパーキラーコンテンツになりえる。

そもそも…

なぜ、動画に子供を出すとバズるのか?
理由は2つ。

まず、1つ目は
想像力の足らない人を取り込めることにある。

ようするに、無邪気な子供の姿を観て「かわいい〜」「こんな家族作りたいな〜」と素直に言えてしまう人たちを相手にできてしまう。
未婚既婚問わず、幸せな結婚生活に憧れる女性からすれば、理想の家庭像っぽい光景は1つのエンターテイメントとして楽しめる。
「ほのぼのしていて癒される」とかね…

だけど
人並みの想像力を持っていれば、そんな素直な楽しみ方などできるはずがない。
子供たちの不憫さを思うと、かわいそうで観てられないのが普通の神経を持つ人間だ。

しかし、世の中には感性が乏しい人もいる。
若さや経験不足ゆえに考えが及ばない場合もある。
そして、YouTubeという媒体は
そんな想像力のない人を狙い撃ちできる。

さらに2つ目の理由に言及すると
レアなものが観れる動画としての価値。

なかなか人が見せないものはYouTubeとの食い合わせが非常に良い。
例えば『YouTubeの収益公開』とか『預金口座に入ってる金額公開』みたいな動画を出す人は一定数いますが、そっち系の動画は基本的に再生回数を伸ばせます。

そのベースにあるのは、普通なら見せないものを見せてくれることへの興味。

子供をYouTubeに出すことは、そのやりかたと酷似している。
我が子を動画に収めて世界中に向けて発信するなんて、誰だってやりたくないに決まっているからだ。

人がやりたがらないことや見せたがらないものはキラーコンテンツになる。
人間には、どこか下世話な興味が潜在的にある。
そんなところまで見せてくれるんだ…?
これはYouTubeの世界において『信用』に近い。
よく、「YouTubeの世界は視聴者との近さが大切」と言われるが
そりゃあ子供までキッチリ紹介してくれるなら身近に感じて当たり前。
親戚?友達?と錯覚させる作用がある。
その方法は確実にファンを増やせる。
「子供まで紹介してくれて…本当に私たちのことを信用してくれているのね」
SNS時代ならではの"謎の絆"を生む。

こういった2つの理由から
自分の子供を出すことはYouTubeにおいてスーパーキラーコンテンツなのだが…

たしかに、商売としては正しい。
「儲ける」という一点においては絶対に間違いない。
子供を利用して好感度も作れる。
子供を前に押し出すことで、自分を守る盾にもできる。

さらに、子供たちは日に日に成長していく。
その成長物語をエンターテイメントにしていくこともふくめ
YouTubeビジネスとしての観点から考えれば弱点がない。
本当に最強のコンテンツだと思います。

それは百も承知な上で…

その最強コンテンツには、どんな副作用があるのか…?

そして、親も子供も

どんな十字架を背負って生きていくことになるのか…?

これは全く笑い事では済まされないので、真剣に綴ります。

 

 


まず、子供のために果たす親の役目とは何か?

いろんな役目があるとは思いますが、その中で1番は
子供を守ってあげることではないでしょうか。

子供をYouTubeに出しているリスクを防犯的な意味合いにおいて否定する意見は実際に多い。
誘拐の危険性や身バレにおいて出てくる弊害が数えきれないのは誰でも理解できると思いますが
それ以上に深刻なのは『親が子供に全く寄り添っていない問題』である。

いいですか。
例えば、芸能人の家に生まれたとします。
子供は、その時点で背負う必要のない荷物を1つ背負わされます。
子供は親を選べません。子供は好きで芸能人の親の元で生まれるわけじゃありません。
不可抗力な運命に導かれ、生まれた瞬間に1つの十字架を背負うのです。

それを踏まえて親はどうするべきか?

できる限り特別視されないよう、子供に普通の生活が送れるようにさせてあげる。
子供を守るというのは、危険から身を守ることだったり、生活を養うことだけじゃない。
不可抗力な運命を与えられた我が子に対し、できる限り普通の生活をさせてあげられる環境を作るのも子供を守ることの一部なのだ。

芸能人を親に持つ子供は絶対に世間から色眼鏡で見られる。
これは何をどうしたところで抗えない。

それなのに…

ただでさえ不憫な子供に、取り返しのつかないカセを付け足している。
YouTubeに出してしまえば色眼鏡どころの騒ぎではない。

「いざとなったら守る」などと言い訳をするだろうが…
「いざ」じゃなくて、最初から守ってやれ。

「子供が出たがっているんです」
そんな反論もあると思いますが

まだ、何も分別のつかない子供は何でも出たがるに決まっている。
この言い訳を親がしてしまうのは1番良くない。
「子供が出たがっているから出す」は
「子供を守る気がない」と言っていることと同じ。
せめて、子供を出していることは自分を原因にするべきだ。
「再生回数、登録者数を増やすため、私の判断で子供たちに出てもらっています」
どうせやるならば、それくらい正直になって誠意を見せるべきだ。
間違っても子供のせいにしちゃダメだ。

出たがる子供に対して「ダメ!これはお父さんの仕事だから」って言ってあげることが本当の愛。親の愛ってそんなもんじゃないの。
ちっちゃい子がリスクヘッジできると本気で思ってるの?
子供のリスクヘッジをしてあげるのはいつでも大人であり親であるべき。
せめて、子供が18歳くらいになって「お父さんのYouTube出たい」って言ってきた時に初めて考えるべき。
全てはYouTubeに出るリスクを子供側が完璧に分かってからだ。

ここでもう1つ問題なのがYouTubeであるという点。

例えば、テレビ番組なら一度放送されたら基本的には終わり。
今はテレビも見逃し配信などあるが、YouTubeアーカイブシステムやコメント欄等々の存在などを考えると、やはりYouTubeはリスクが高すぎる。

例えば、子供が小学校高学年〜中学生くらいになったとき「もうYouTubeに出るのイヤだ」と言い始めても、時すでに遅し。
動画はYouTubeチャンネル内に膨大な数アーカイブされている。
もし、その膨大な数の動画を全て消したところで、一度ネット上に出したものは、どこかで観れてしまう。
デジタルタトゥーなどという言葉があるが
まさしくそのとおりなのだ。
1度出たら、もう一生戻れない。

さらにはコメント欄の存在だ。
わざわざ動画を観にくる人は好意的な人が多いので、誹謗中傷はほぼないと思われるが、それでも何かあった時には分からないのがネットの世界。
しかもYouTubeのコメント欄だけでなく、手軽に意見を書き込める場所は山ほどネット上に存在している。
そこで子供のことを傷つける意見が溢れていた場合…本当に親は子供を守れるのか?

ハッキリ言って、それは現実的に無理。
サイトの運営側に消してくれと言っても取り合ってくれないし、キリがない。
私は実体験で知っております。
事実無根すらも溢れまくる世界において、誹謗中傷を全て消すことなど不可能。

実際、ネット上で誹謗中傷を受けることは心身ともに疲弊し、時に生きていく気力までも失わせる。
ましてや素人である子供に罵詈雑言の火の粉が飛んだ場合…
子供のメンタルはどうなるのか…想像するだけで背筋が凍る思いになる。

親は自分で選んだ道であり、YouTubeをやると決めたからにはネットの意見と戦うことも仕事の一部。
数字が伸びれば伸びるほど、胃をキリキリと切り刻むような悶絶する痛みが伴う。
不特定多数の大勢の目に触れることは本当に恐ろしい。

なぜ、そんな修羅の道に子供を巻き込むの?
親の仕事に子供は関係ない。
子供を出演者にすれば、素人でも公人になってしまう。
それはネット上や街中で、どんな言葉を浴びせられても仕方がないステージに子供を上げたことになる。
『出演者』とは
そんな過酷な運命を背負い続けるのだ。
本当に愛情があれば
子供がそういった様々なリスクを理解できる大人になるまで待つべきだろう。

子供が大人になるまで待って出てもらっても
その頃には商品価値がない…
これが現実的にユーチューバーとしての本音なのは重々承知はしてますが…

仮に再生回数や登録者数は伸びなくても、親ならば1人で戦って子供を守ってほしい。

「子供たちを観て喜んでくれる視聴者がいる」
「子供たちも喜んでいる」
「否定意見は幸せそうな家庭に嫉妬しているのでは?」

そんな生ぬるい言葉を建前に
お茶を濁している場合じゃないのは理解していただけたでしょうか?

これら、いろいろ踏まえて
親が子供に寄り添っていない姿勢に関しては分かったと思いますが
さらに違う問題も出てくる。

それは親としての威厳を失う可能性だ。

「親のことを尊敬している」
ハッキリそう言える人に会ったことは誰でもあると思います。

もちろん理由はそれだけでなくても、そこのベースには
『親に養ってもらってきた』という感謝の気持ちが関係しているだろう。

生活費、食費、学費、など様々
親が自分のために頑張って働いてくれて、お金を払ってきてくれた事実。
これは何事にも変えがたい。

しかし、子供をYouTubeに出して、お金を稼いでいくことは…
誰が誰を養っているのか、パワーバランスが微妙になってしまう。

ある意味、まだ小さい子供が大人の親を養っている状態とも言える。

子供が小さい時には気づかないかもしれない。
だが、子供だって成長し、学校に行けば学校の中の社会がある。
そこでクラスメイトに言われる日が来る。
「あの再生回数だったら、月にこれくらいの収益にはなってるんじゃない?」

時はYouTubeネイティブの世代。
いろんな事情に詳しい子も多いだろう。
お金の話題がクラスメイトから上らない保証などない。
いや、お金の話題になる可能性は、かなり高い。
小学生や中学生のデリカシーなんてそんなものだ。

そこで、子供は自分の出演動画で親がいくらほど稼いでいるかを何となく知ることになる。
もちろん、どれほどの再生回数、登録人数かにもよるが、その金額には驚くだろう。
ん?お小遣い月に3千円だけど…はあ!?3千円!?
ブラック企業も真っ青なピンハネ率に気持ちの置き所が難しくなるだろう。

そんな発想が子供から出てくるかな…?
親からすれば子供を信じたくなる気持ちはある。
「お金のことを考える子に育てた覚えはない!」
と言いたくもなるだろう。

でもね、そこで子供の善意に頼るのは虫が良すぎる。
だって、実際に親は子供でお金儲けしてきてるんだから。
そのカウンターは甘んじて食らうべきだ。
もし、子供がそう思ったとしても、子供は何も悪くない。

そして、子供が反抗期を迎え、叱らなければいけない場面で
「そんなこと言うんだったら出て行きなさい!!」
と親が子供を一喝する。

しかし、子供はこう返します。
「いやいや、この家のローン払える収益生み出してるの誰だと思ってるの!?出て行くのはそっちでしょ!!」

目も当てられない泥仕合になります。
でも、仕方がない。子供は悪くない。
だって、実際に子供が身を削ってリスクを背負って修羅の道で戦って、お金を稼いでるんだから。

これは
子役でスターになってしまった状態に近いと感じる人も多いと思います。
でも、良し悪しの話ではなく実際は全然違います。

子役でスターになる子供はプロです。
子供ながら自分自身がプロとして作品に参加して、自分の仕事として、お金を稼いでいます。

歌舞伎の世界もそうです。
世襲制で子供は小さい時から稽古を重ね、歌舞伎役者への道を歩み始めます。
それは立派にプロが歩む道であり伝統芸能の世界。
これこそ不可抗力の極みでもあるが、それとこれを比べるのはあまりに歌舞伎の世界に失礼だ。

だから、「子供をYouTubeに出しているのと歌舞伎の世界は同じ」と言った反論意見を聞いたことあるのですが、もう2度と言わないでほしい。
反論している人も、本当は違うと分かっているはずです。

親が子供をYouTubeに出しているのは子供が親の仕事を助けているんです。
子供が親の仕事場を戦場にして大活躍した結果
親にお金をパスしてるんです。

当たり前の話ですが
自分の力だけで戦える人ならば、絶対に家族を出すことはない。
基本的に、どんな親だって自分の仕事は自分だけでやるものだ。

ポジションや収入面…
自分の力では辿り着けない領域まで子供が連れて行ってくれているので、親は子供に頭が上がらなくて当然。

これって見方を変えれば…
まだ幼い子供が親の弱みを握っている状態とも言える。

子供が弱みを握ったことで親を揺さぶる日が実際に訪れるかどうかは置いといたとしても
果たしてこの親子関係は健全なのか?

それは各々考えていただけたらいいのですが

1つ確実に言えることは

やらないほうがいいのは間違いない。

これは子供をYouTubeに出している親でさえも分かっていることだと思います。

大きな家を買おうが高級車を買おうが豪華な旅行をしようが
子供に買ってもらったという事実…
プライドやリスクと引き換えに手にした贅沢…

何も考えないはずがない。どこかに負い目はあって当たり前。


ここまでは親と子供との間に起こりえる問題を書き記しましたが
実際はそれだけじゃありません。

もし高額納税者になっても、どこか尊敬されない。
想像力のある世間の人たちからの白い目もある。
物事の本質を捉えられる人からは
決して良いイメージで見られることはない。
「子供に頼らず自分の実力だけで戦わないのか?」という声もアチコチから聞こえてくるだろう。

社会的ポジションから考えても、メンタルを擦り減らす場面は多いかもしれない。

しかし
背に腹は変えられない。
そういうことも人生にはあります。

最大限にドライなことを言うと
お金はお金なんです。
どんな形で手にしたとて
1,000円は1,000円。1億円は1億円です。

お金は本当に大切です。
ないよりあるほうがいいのは間違いない。

だから、これは究極突き詰めれば価値観の話です。

本人が良ければそれでいいんです。
生まれた瞬間から家族は運命共同体だという考え方もあるのでしょう。
「自分の子供をどう使おうが親の勝手」
そんな理屈も世の中にはあるのでしょう。

よそ様のことなので、本来は他人が口を出す必要はありません。(出しまくりましたが)


さらに、家族全員
一生の十字架を背負ったとしても
子供が親孝行であることは間違いない。

子供が親のために人生を賭けた一世一代の戦いをYouTubeでしている。
そっちに目線を変えてみると
こんな不憫な話が美談にも見えてくる。

ムリヤリにでも美談として考えたほうが私自身も救われます。
救いがないのはあまりにも残酷すぎる。
もしかしたら、YouTubeで生んだお金の半分は子供にギャラとして、お支払いをしているかもしれない。
それなら、子供もプロとして割り切れる可能性もある。

ただ
もし、自分の親がそんな人だったら…私は尊敬できませんでした。
だから、うちの両親には心の底から感謝しかありません。
自分の力でお金を稼いで、私を育ててくれた親を誇りに思います。

これが私の価値観です。 

世の中には、いろんな人がいます。
分かり合えなくても、生き様は違っても
それが人間の個性。
全員が同じ価値観や感性では面白くない。

綺麗事に落とし込まないと
私もこの記事の終わらせかたが分からないので

よし!
みんなちがってみんないい!


はい、おわり!

和牛不在のM-1グランプリに望むもの

M-1グランプリの休止明け、2015年からのミスターM-1と言える和牛。

そもそも今年はM-1不参加を表明していたが、本当に不参加だった。
そして、2020年のM-1も準決勝進出者が発表され、決勝へ向けたドラマは着々と進行している。

コロナ禍における開催であり、当然例年と雰囲気も変わるだろう。

さらに、最初から分かっていたことではあるが
和牛の不参加をここに来て再確認してしまう。

当たり前だが、準決勝のメンバーに和牛はいない。

今年は参加漫才師たちの舞台に立った数も少なく、客前で新ネタを試すチャンスも激減した。

それゆえなのか、本命不在とも言える今年のM-1
どの漫才師が決勝に上がってもおかしくはない。

ラストイヤー組でも準決勝進出は学天即のみ。


まだ、ワイルドカードで一枠残されてはいるものの、本当に忖度はなし。
ラストイヤーも第7世代もテレビ露出も関係ない。

ここまで予測不能だからこそ、和牛がいれば文句なしの大本命だっただろう。

しかし、以前noteにも書きましたが、2017年のM-1は和牛が優勝している。

https://note.com/yujiliko/n/n7afcf4b301e6


この記事ではM-1史上、最大の歴史に残る世紀の大誤審について詳しく解説しております。
有料ですが、もしよろしければ読んでください。

実質、1度優勝している和牛だからこそ…
もう出なくていいと言えば出なくていい。
優勝したコンビが再び出場したケースも過去のM-1にはあるが、優勝したコンビは極力出ないほうがいいだろう…というのは完全なる個人的意見。

だが、準決勝まで来れば、和牛のいないM-1に少し寂しさを感じざるをえない。
何かが物足りないような気もするし、チャンピオンが出場する必要はないので、これで正解だと思ったりもする。

そもそも
なぜ、和牛がM-1戦士を象徴する存在になったのか?

もちろん、連続で優勝にギリギリ辿り着けなかったことが最大の理由ではあるが…
それだけではない。

あのキメの細かい芸術的漫才に我々は魅了されていた。

上手さは言わずもがな、上手さだけではない。

何か、凄く良い作品を観させてもらったような…
和牛はそんな不思議な感覚に陥る漫才をM-1で数々披露してきた。

そこにあったのは事後のインパクトの強さだ。

ご存知のように、M-1の決勝は漫才を披露した直後に点数を決めるシステムである。
それゆえ、一瞬の爆発力や場を制圧した圧巻の空気感を残せば高得点に結びつきやすい。

それ自体はエンターテイメントとして至極真っ当。
毎回得点が出るハラハラ感に一喜一憂がある。
間違いなく、M-1グランプリ決勝の面白さは点数が出るあの一瞬の時間にある。

だが、ネタが終わった直後に点数を決めなければいけないシステムゆえ…
場合によっては勢いだけで逃げ切れてしまう場合もある。

その場を沸かせ、笑いを取ったのは間違いないが
もう1度見直した時にどうなのか…?

もっと言えば、「ネタの内容を覚えていますか?」
そう聞かれた時に、「あれ?どんなネタだっけ?」となることもめずらしくはない。

客席が沸いていたのは覚えているんだけど…
ボケ数が多かったのは記憶しているんだけど…

正直、うる覚え優勝は過去に何度かあっただろう。

この現象自体に何かを言いたいわけではなく
そういったルールでやっている以上、そこで決まったことが正解。

そのルールに則った上で勝敗を決めているので、それがM-1グランプリなのですが

もし、仮に全漫才師の全ネタに点数をつけず
全てのネタ終わりで審査員が全員で協議して優勝を決めるルールだったとすれば…

和牛ほど強い漫才師はいないのでは?

いつかのM-1決勝で、水田さんと川西さんが顔を突き合わして睨み合う場面があったが
あの、言葉を使わずして爆笑を取る1シーン…

私は未だに忘れられない。

あまりの構成の美しさと見事な間の使い方に
M-1の現場にたくさんいる黒スーツの大人たちが、声にならない声を一斉に漏らし、どよめいた瞬間…

私は未だに忘れられない。

笑いを測るのは量だけではない。
笑いには取り方がある。

 

今年、2020年の準決勝、和牛はいません。

もちろん、荒削りでもバチバチにフレッシュな殴り合いを見せるのがM-1グランプリの醍醐味。
それは事実なのですが…

和牛抜きのM-1で期待せざるをえないのは

その瞬間の爆発力だけではなく
後からジワジワ押し迫ってくる面白さ。

良い作品観れたなあ…
また、観よっかな…

やっぱり、そんな漫才も観たい。

もちろん、全漫才師がそうである必要はないです。

いろんな漫才があっていいし、そこには正解などないのですが
漫才日本一頂上決戦として和牛の魂は引き継いでほしい。

勝手にそんな思いがあります。

ただ、準決勝に残った漫才師を見ると
これは決勝進出コンビを決める審査が難航を極めるカオス状態なのでは…

 

そんななか、ラストイヤーの学天即には豪腕の漫才筋肉を駆使して暴れ回ってほしい!

和牛不在、本命不在のM-1グランプリは個性の創造主たちが大挙入り乱れる
マイク一本で殴り合う究極のバトルロワイヤルになりそうだ。

理解できない人たちがいる大切さ

以前書いた
プラス・マイナス、ジャルジャル銀シャリ
の記事の中で

 

https://yujiliko514.hatenablog.com/entry/2020/11/22/151640

 

ジャルジャルのコントに関して…
『理解できない人たちがいることの大切さ』について、また別の機会で書きますと言ってしまったので記事にしてみようと思います。

『よく分からない』『理解不能』と言われてしまうことは、どんなエンタメの世界にもあります。

例えば、映画を観に行って『最後まで意味分からんかった』と首を傾げながら映画館を後にしたことは誰でも1度くらいあると思います。

当然、ほとんどの場合でネガティブな使われ方をします。
楽しめなかったわけですから、ポジティブな意味として捉えることは難しい。

だけど、この『理解できない人たち』の存在がエンタメの世界には重要。

その意味…そして、なぜ重要なのか?

少し噛み砕いて記事にさせていただきます。

よく表現の世界には
「分かる人にだけ分かればいい」
そんなことを公言する人もいる。

尖った思想であり、若い頃に言いがちな言葉。
こういった強気な時期もいいですが

今回のテーマは、そういった「分かる分からない」のレベル論ではなく…

理解させようと合わせにいくことの弊害。

相手に合わせにいくのではなく
相手側に合わせてもらう意識。

私は、ここをポイントとしています。


私にも背伸びして理解できないものを理解しようと頑張っていた時期がありました。

例えば小学生の時に観ていた『ダウンタウンのごっつええ感じ』などは、その典型かもしれない。

 

10歳ほど年上の人たちがゲラゲラ笑っている様を見て必死に食い下がろうとしていた。

伝説的お笑い番組として歴史に名を刻むほどに
当時のお笑い好きの若者は熱狂していたとは思いますが
その一方で…
まだ幼さの残る世代にはイマイチついていけない現実もありました。
どう考えても小学生くらいの経験値で笑えるものではない。
「これを観て笑えることがカッコ良い」
ムリヤリそんな尖り方をしていた記憶がある。

だが、もしもあの頃のダウンタウンさんが
ごっつええ感じで繰り広げていたコントを小学生にも分かるように合わせにきていたら…
想像しただけでもゾッとする。

そんなことするわけないのは当然分かっておりますが…

ダウンタウンさんは誰にも合わせることなく
自分たちの面白いと思っている世界を表現されていた。
だからこそ、ごっつええ感じは今なお伝説として語り継がれている。

日本映画史に残る屈指の名作『男はつらいよ』だって、私は小学生の頃から観ている。
当時、その面白さの本質など理解できるはずもない。
だけど、その経験が大人になってから活きている。
理解しにくいものを背伸びして分かりにいくことの大切さ…
それを繰り返すうちに
いつのまにか感性は磨かれ、大人のエンタメを理解できる目が養われる。

以前、寿司屋に行ったとき、サーモンばっかり食べている中学生くらいの男の子を見たことがある。
サーモンを食べ終わったら、またサーモンを注文する。それを食べ終えたら、またサーモンを注文する。
隣にいるその子の親は気に留める様子もない。
おそらく、いつものことなのだろう。

「好きなもん食べてるんやから放っておけ!」
と言われることは分かりますが
まだ、味を理解できなくとも、他の寿司ネタも食べてほしい。
うるさい奴だと煙たがられることは百も承知ですが、理解できない世界にも手を出さなければ世界は広がらない。

現在、YouTubeなどネットメディアの勢いが増していますが
好きなものばかりを選んで観れてしまうので、全く背伸びをする必要がない。
ようするに、寿司屋でサーモンばかり食べられる環境。
今の若い子たちは、ごっつええ感じのような背伸びを要するソフトと偶発的に出会う可能性が非常に低い。

どうしても居心地の良い場所に人は留まる。
わざわざ理解できない場所に飛び込む必要もないのがネットメディアの世界。

しかし、テレビはテレビで
どのようにしたら万人に伝わるか…?
それを繰り返してきた歴史からカウンターパンチを受けた。
テレビは不特定多数メディアであると同時に
時間帯次第では幅広い年代層に観てもらえることを意識せざるをえない。

それはそれとして1つのカタチなのだが
合わせにいくばかりだと、『作品に魂入れず』に見えてしまう場合もある。
本当に表現したいものが何なのか?
どうしてもボンヤリしてしまう。

だから一概にどっちが良い悪いとは言えないのですが…

今回伝えたいことの主点は

合わせにいくことは自らのストロングポイントを消すことと同義語。

理解できない人たちが存在しているぶん
強く刺さる人たちも存在する。

以前の記事でジャルジャルのコントを例には出したが
実際、ジャルジャルのコントで腹を抱えて笑う人は多い。
ハマる人にとっては底無しにハマっていくほどに
鋭すぎる感性と独特のセンスがある。

その熱狂的にハマる人を生み出す構造の下地には
ジャルジャルのコントを理解できない人たちの存在がある。

理解されにくいほどに先細っているからこそ
理解している側のパワーも強くなる。

理解できる人がセンスあるとか、理解できない人がズレてるとか
そういう話では一切なく…
これはエンターテイメントに絶対必要な側面だという話。

その方法にもいろいろ種類はあるが
これは感性や感覚における先細りの話。
若者しか知らない言葉を使ったり
今、旬なアーティストの名前を使ったりすることを先細りとは言わない。

そういった世代間のギャップとして理解されにくいものではなく
センスを合わせにいくのではなく
センスは合わせにきてもらう意識。

ここだけは大切だと思います。

マーケティングを分析して合わせにいく。
ヒットしている人の真似をして追随する。

ビジネス的には、それが正解なのかもしれませんが

理解できないお客さんを
勝手に生んでしまう表現者の中に
ホンモノが混ざっている。


サーモンは一貫にしておいて、他のお魚も試してみましょー。

偉人の年齢学〜ちびまる子ちゃんとサザエさんは20代の女性が作った国民的エンタメだった〜

「何才までには〇〇しなきゃ」
「えっ!何才にもなって、まだ〇〇なの!?」

人間はなぜか年齢という数字に縛られる生き物だ。

全員が平等に時を刻み、誰もが1年経てば1つ歳をとる。
時代が変わろうが、文明が進もうが、外国に目を向けようが、未来永劫これだけは同じだ。

それゆえ年配の人の口から飛び出す「俺が〇〇才の時はなあ…」と言った、あまり聞きたくない系の昔話でも、年齢の話を絡められるとつい耳を傾けてしまう。

「そうか、この人〇〇才の時には、もうそんな立場だったんだ…」
今の自分の年齢と照らし合わせた結果、少し憂鬱な気持ちになった経験、誰もが1度くらいはないだろうか。

しかし、そんな周囲のちょっとした自慢話に振り回されるのは、いちいち面倒くさい。
そして、なんだかんだ言っても規模は小さい。
その程度の年齢にまつわる話に一喜一憂するような自分に収まる必要はないのだ。

あえて、振り切ったところまで極端なケースを再確認し、少し清々しい気持ちになって明日を迎えようではないか。

なので今回は、様々な分野の偉人たちは
「こんな年齢でこんなことしていた!」という
にわかに信じがたい、別格人間たちの年齢学を紐解いていこうと思う。

橋下徹氏が大阪府知事に就任したのは39歳

茶髪の弁護士としてバラエティ番組で人気者になっていた頃の記憶はほぼ思い出せない。
しかし、抜群の存在感とリーダーシップを発揮し、大阪を変えようと必死に戦っていた様は記憶に新しい。
そのスタートを切ったのは、まさかの30代だった。
政治の世界は年齢による説得力も必要な気がするが、橋下徹氏は若くしてあの説得力とカリスマ性を持ち合わせ、命懸けで戦っていた。
別格すぎて逆に清々しい。

ダウンタウン松本氏が初めてM-1で審査員を務めたのは38歳

今なら38歳は若手芸人である。
そして、松本氏は若くして審査員に大抜擢されたというニュアンスは一切なく、もうこの頃には審査委員長に近い立ち位置だった。
ほぼ全ての出場芸人が松本氏の顔色を見ながらネタをやり、松本氏の出す点数に一喜一憂していた。
極論を言えば、若干38歳で笑いにおける神の目線になっていたのだ。
ちょうど30歳あたりで芸能人長者番付のトップ争いをしていたダウンタウン
これも別格すぎて逆に清々しい。

島田紳助氏がオールスター感謝祭でMCを務めたのは35歳

今なお続くTBSを代表する大型特番、オールスター感謝祭
能力はもちろんのこと、説得力やタレントランクなど様々なことが考慮される超大型特番の司会者に島田紳助氏が就任したのは、まさかの30代の半ばなのだ。
ダウンタウンと同様、この時点で天下人だったと言える。
今の30代半ばの芸人のほとんどはまだまだ劇場で若い子を相手に漫才をし、手売りでチケットを売り、テレビに出ても大体ロケで体を張る。
時代が違うし競技人数も違うので一概に比べることはできないが、ここまで圧倒的だと別次元の力を持っていたと認めざるをえない。

長渕剛氏が乾杯を発表したのは24歳

結婚式の定番ソングとして、日本中のウェディングシーンを様々な形で彩ったであろう乾杯。
もはや、世代を超えて日本を代表する屈指の名曲だと言える。
そんな日本を代表する名曲を発表したのが大学生に毛の生えたくらいの年齢である。
これは才能なのか運なのか努力なのか時代なのか…よく分からない次元だ。
そして、これは長渕剛氏の古くからの知人に聞いた話だが、乾杯に次ぐ名曲と言える巡恋歌長渕剛氏が大学生の頃には、もう作っていたらしい。先ほど分からないと言ったが、やはり音楽は才能なのだろうか?本当に分からない。

★ジョンレノンがイマジンを発表したのは31歳

これも上記とほぼ同じだ。
もう、この現実に対してイマジンオールザピーポーと言いたい。31歳で世界を癒す歌を作っていたということか…本当に恐ろしい。

★ナポレオンがフランスの皇帝となったのは35歳

ん?これは読解不能だが、フランスの皇帝となるには早すぎる年齢な気もするが、もはや早いのか遅いのかさえも分からないレベルだ。
どうすれば皇帝になれるのか、その手順すら想像つかない。

織田信長桶狭間の戦いで勝利したのは25歳

ん?これも読解不能だ。織田信長の25歳と言われてもピンとこない。
だが、25歳は25歳なのだ。25年生きてるということだけで言えば今の25歳と同じ。
今の25歳が桶狭間まで行って戦えるか?
やばい。学がないのがバレそうなので、信長の話はこのへんでやめておこう。

★ジョージルーカスがスターウォーズを制作し始めたのは33歳

まあ…天才とはそういうものなのだろう。
世界史に残る映画を作れる人間に、年齢の話はヤボなのかもしれない。
「ハイ!ジョージ!君は33歳でスターウォーズを作ったのかい?」と気さくに聞いてみても、ジョージルーカスは首を傾げたまま質問の意味すら理解できないだろう。
それがスターウォーズを作れる人の脳みそだ。

松下幸之助Panasonicを創設したのは16歳

ついに10代の登場だ。あの誰もが知る、あのPanasonicである。これは多分に時代背景もあるのだろうが、おそらく普通の16歳の感覚はなかったのだろうと推測する。
16歳なんて、初めてちゃんと好きな人ができてウジウジしながらサイゼリヤで友達とウダウダして、家族の中で軽く下ネタが飛び交ったら赤ら顔で「なんやねんそれ!知らんし!」と作り真顔で親に強く言い放つ時期だ。
そんな時に松下幸之助と来たら…なんか、すいません。

ビルゲイツMicrosoft社を作ったのは18歳

IT業界は比較的若いイメージがあるが、さすがにこの若さは異例だろう。
細かいことは分からないが、才覚や先見の明と呼べるもののずっと先の最先端を見ていたのだろう。
18歳のアメリカ人と言えば、ホットドッグ買い食いしながら隣町のバスケチームに混ざってバスケをしていると、その場でバスケを見ていた白人の女の子に一目惚れしたのはいいが、チーム1番のエースとその子が付き合っているのを後々目撃し、世間のカースト制度を知って激しく落ち込むタイミングくらいだ。
そんな時にビルゲイツと来たら…I'm sorry

福沢諭吉慶應義塾大学を設立したのは23歳

ん?23歳は大学に通う側でしょ?
大学を作るのが23歳?これはさすがに優秀なのかどうかさえも私では判断がつかないレベルだ。教授になれるくらいの人が、たまたま生徒の年齢だったってことなのでしょうか。
一万円札を何度見ても答えは分からない。

アインシュタイン相対性理論を世の中に発表したのは26歳

これも優秀なのかどうかさえも判断できかねる事案だ。解説は逃げたほうが賢明だろう。

さくらももこちびまる子ちゃんを連載し始めたのは21歳

長谷川町子サザエさんを連載し始めたのは26歳

国民的漫画であり、国民的アニメにもなった、この2つの作品は20代の作者の発信だったのだ。
私の仕事柄1番アンテナが向くのはこの2つだろう。
時代を変えるような何かを生み出したい。
クリエイターならみんなどこかで考えていることだと思うが、これを20代で生み出してしまっていた現実は眩しすぎて直視できない。
作者は亡くなっても、作品は永遠に愛され生きていく。クリエイターとして、これほどの幸せは他にないだろう。
ちびまる子ちゃんサザエさんも私は本当に大好きだ。この2つの作品は一生好きだと言い切れる。
そんなとてつもない作品を若い女性が生み出したという功績はあまりにも偉大であり、何より夢がある。
この2つの作品は日本の何気ない日常を切り取った、スーパーエンターテイメントの二大巨頭で間違いない。
若き20代の女性2人がサザエさんとまるちゃんという、今なお日本で最も愛される2人を誕生させた事実に、なぜか私は感動すら覚える。
余談だがサザエさんは24歳でマスオさんは28歳。あれは想像以上に若き夫婦のお話だったというのを後で知り、やたらと驚いた覚えがある。

★タイガーウッズがゴルフスコアで大人相手に初めて勝ったのは7歳

一桁代が来てしまった。
7歳と言えば小学一年生に当たる年齢だ。
まず、小学一年生がゴルフクラブを握ってゴルフボールを打つだろうか?
仮に打ったとしても、状況に応じてクラブを変えたり芝生のラインを読んだりするか?
見たわけではないので、細かい状況は分からないが、7歳にしてゴルフプレイが大人顔負けで、できてしまうこと自体が別格さを物語る。

モーツァルトが初めて作曲したのは5歳

5歳で曲を作る?5歳で作れるものなど泥団子くらいではないのか。
楽家の世界はよく分からないが、5歳で作曲できる人なら、どんなアーティストも潔く負けを認めるだろう。
センスや才能などを超越した、音楽の神に選ばれたという表現がピッタリである。

よし!ここまでの規模になると逆にスッキリできた。

今度、上司や先輩に
「俺が〇〇歳の時はなあ…」
「私が君の年齢だった時はね…」

と切り出されそうになった時は、すかさずこう言いましょう。

モーツァルトは5歳で作曲したらしいっすよ」

間違いなく嫌われますが、オススメです!

 

 

 

 

 

 

 

プラス・マイナス!ジャルジャル!銀シャリ!ネタで生きられる盤石世代!

NSC大阪25期
同期の3組であるプラス・マイナス、ジャルジャル銀シャリ

このお笑いコンビ3組の共通点をお分かりでしょうか?

ネタで食べていける。


以上。
言いたいことは終わりなのですが

せっかくなので、もう少し追記します。

よく、「この世代は黄金世代だ」
みたいに称される世代がありますが
この3組の漫才、コントで生きていけるポテンシャルを考えると
こちらの世代も、かなりの黄金世代なのでは…?

売れっ子を数多く輩出する世代も凄いですが
ネタで生きていける世代も相当凄い。

「芸があるから芸人」
「芸事で生きていくから芸人」
だとすれば

この3組は芸人の中の芸人。

 


まず、プラス・マイナスと言えば劇場番長と呼ばれるほどに、とにかく漫才がウケる。

漫才中、笑いの渦がうねりまくる。
今や劇場番長というより、もはや漫才番長。
漫才師としての地肩がエグすぎる。
そのベースにあるのは、確かなフリートークの力。

そう、平場の強さが、そのまま漫才にも反映されている。
実は、これができそうでできない。
フリートークのテンポ、間、構成力。
それをそのままネタにスライドさせることは意外と難しい。

なんとなくネタには型があり、その型を体が覚えると、漫才師は漫才仕様のしゃべりとなってしまう。

これは決して悪いことではなく
ネタとは元来そういうものだとも思う。

ただ、プラス・マイナスはトークや平場で見せる魅力が、そのまま漫才に活かされている。
その最大のメリットは…
"ニンの力"で笑わせることができる。

人の魅力で戦えることは最強の武器。
極端なことを言ってしまえば、しゃべった内容が的を外したとしても笑わせることができる。
もう、そうなれば怖いものなしだと言ってもいい。

以前、プラス・マイナスに関しては
こんな記事を書いております。


お笑いの世界はダイアンとプラス・マイナスが10年後に勝っているという内容ですが
この記事の中ではプラス・マイナスがM-1グランプリに1度も出られなかった件にも言及している。

ただ、もしも出ていれば…と仮定して
2018年がプラス・マイナスのラストイヤーなので、事実上不可能なのですが
もし、2019年の神回M-1グランプリにプラマイが出ていたら…確実に神回を超えていたと思われます。

ミルクボーイ、かまいたち、ぺこぱ、プラス・マイナス。
この四つ巴が雌雄を決するM-1は伝説以外の何物でもないです。

そして、ネタ終わりの平場でもめちゃくちゃ光ったでしょう。
巨人師匠の寸評に巨人師匠で返す兼光さん。
隣でツッコんでからかぶせる岩橋さん。
もう、その時点で優勝。財布パンパンやね。

何より、M-1に芸人人生の全てを捧げる裏ミスターM-1こと、ゆにばーすの川瀬名人が最大限のリスペクトをしている漫才師がプラス・マイナスである。
もうその事実だけで全てを物語る。

M-1には出られなかったが、プラス・マイナスは漫才の王者です。

そして、2020年のキングオブコントを制したジャルジャル
もはや優勝する前から誰もが認めるコントのキング。
一体、頭の中どうなってるんですか?ランキング1位のコンビ。

ジャルジャルは2020年のキングオブコントを本気で勝ちにきていた。
それはネタを見た瞬間に誰もが思いましたが
よく、考えるとキングオブコントなんて全出場コント師が本気で勝ちにいくに決まっている。

しかし、その勝ちに行きかたがジャルジャルと他のコント師では違う。

ジャルジャルは、おもしろいコントを披露する戦いに参加しているのではなく
どうすれば伝わるかの戦いに見える。

クオリティーの高いコントを量産していくうちに、どう合わせにいくか…という地点まで達してしまった。

すでに勝ってはいるけれど、その事実をどう理解してもらうか?
極端に言えば、ジャルジャルだけ参加している競技が違う。
これは他の出場コント師たちも分かっていることだろう。

どれだけレベルの高いコントを作り続けても
なかなか、そこまでの域には達しない。
ライバルとも言える芸人たちがここまで格の違いを認識していることはめずらしい。

だが、一方で…ジャルジャルのコントは「理解できない」と賛否両論を生む場合もある。
ネットの書き込みや周囲の友達から
そんな意見が出てくることは意外と多い。

しかし、理解できない人たちがいることの大切さ。

これは長くなるので、また別の機会に書こうと思います。

さらに、ジャルジャルは進んでひな壇には出ない。
自分の得意な場所をハッキリと決め、そこを自分たちの戦場にする。
ひな壇で笑いを取ることが難しいなら、ネタで笑いを生みまくる。

これこそ、誰にも迷惑をかけない誠実な芸人道。
苦手を公言しながら出続けることは生き様として不誠実。
得意な場所だけに絞って、きちんとお笑いをやって人々を笑わせる。

これぞ単純明快かつ、お笑い芸人の鏡です。本当に。

そして
漫才、コントの二刀流を駆使するジャルジャルではあるが、私の中では100%コント師

漫才の場合は従来ある漫才の型をフリにすることが多く、それはそれでめちゃくちゃ面白いのだが
そのセンスは全てコントに活かせる。

ジャルジャルM-1では勝ちきれなかったが、勝ちきれなくてよかったとも思う。
『どこまで型を崩していいのか論争』は意見が割れるところだが…
やはりM-1は漫才師たちによる漫才の祭典。

ジャルジャルが1番輝く戦場は
センスがパンパンに詰まった人たちに向けた自由度の高いコントだと私は個人的に思います。
そのステージに出れば、ジャルジャルが負けることはない。

最後は銀シャリ
M-1グランプリ2016のチャンピオンだ。

M-1グランプリも大会によって様々な色があるが、2016年大会はツウをうならせるM-1グランプリだったと個人的には思っている。

簡単に言えば、2016年はテクニックの大会だった。

「とにかくおもしろい漫才」という審査基準が設けられてはいるが、その"おもしろさ"をどこで測るのかは本当に難しい。

当たり前の話だが、笑いの世界に満場一致はない。
時に審査員の満場一致はあっても、日本国民全員の満場一致はなく
100メートル走のタイムのように笑いは数値化できないのだ。

そんな数値化できない漫才をムリヤリ数値化していくのがM-1
本来できないものにムリヤリ点数をつけて勝敗を決めているがゆえ、M-1においては審査員の出す点数が全て。そこに異論がつけこむ隙はない。
笑いの勝ち負けに明確な正解などないので
選ばれし審査員のジャッジに文句をつける人間は、M-1に出る資格もなければM-1を語る資格もない。

そんななか、銀シャリの優勝で幕を閉じたM-1グランプリ2016は手練れの漫才師たちのテクニックを存分に見せつける大会となった。

テクニック論には賛否あるかもしれない。
漫才は技術ではなく笑えるかどうか。
巧さではなく面白さ。
そんな意見も時折散見する。

しかし、技術があるから面白い。笑える。
ここを忘れてはいけない。

巧いから高得点ではない。
巧くて笑えるから高得点なのだ。

技術の応酬で刀を振り回しあった結果…
最後に勝ち切った銀シャリの漫才。

絵に描いたようなThis is MANZAI。

漫才も、あの手この手で細分化されていくなか
しゃべくり漫才の王道をひた走る。
ふってボケて笑いが生まれて
ツッコんで笑いが増していく。
シンプルかつクラシカル。

そのネタ運びの巧みさと構成力。
老若男女で埋まったパンパンの会場が笑い声で包まれる。
「あ〜、これか。漫才って」
そんな当たり前なことを呟きたくなるプロの漫才師。

またプラス・マイナスとも違った形の漫才番長。

東のナイツ。西の銀シャリ
東の壁はかなり高いが
いつか、そう言われる日が来るかもしれない。

 

 

今は完全なる芸人多様化時代。

笑わせることを本業としない芸人も増え
芸事を生業としない芸人もいる。

時代の流れと言えばそれまで。
生き様の違いと言えばそれまで。

たしかに、芸事で人々を笑わせ続けることは難しすぎる。その戦いから降りてしまう気持ちも分からなくもない。
今の時代は芸人の肩書きを背負ったまま、他の道へと転職できる。
ある意味では便利な世の中になったのかもしれない。

でも、本来なら芸事で人を笑わせるのが芸人。

現代において、その当たり前は消えつつあり
進む道も人それぞれ。

そして、良くも悪くも人それぞれを受け入れる世の中になった。

だからこそ
プラス・マイナス、ジャルジャル銀シャリ
同じ期に『芸事で人々を笑わせ続けられる芸人』が3組出てきたことには大きな価値を感じざるをえない。

今年はコロナによって、劇場にお客さんが入れなくなる前代未聞の事態となった。
お客さんありきで提供してきたエンターテイメントは考え直さざるをえないキッカケにもなるが
仮に「舞台に立ち続けていれば大丈夫」という説は崩れ去ったとしても…
ネタを量産できる力、芸事を極めていく力が普遍的かつ笑いの世界において絶対的であることに異論の余地はない。

その才能は何かしらの形で活かせる。

だからこそ

もう1度言うておきますが
この3組はおそらく

ネタで食べていける。

ビジネスモデルとかマネタイズとか
小難しい話もいいですけど
芸事で人々を笑わせる人が芸人だということも
お忘れなく。