ゆじらぶろぐ

構成作家。ライター。文章と言葉で誰かの楽しみを作りたいです。

スリムクラブのM1グランプリ2020準々決勝の動画は必見!

現在、GYAOで配信中のM-1予選動画。

出場漫才師にとってはネタバレ云々が相当大変だとは思いますが、本当に良い時代です。
スマホで手軽に渾身の漫才を観ることができるのは想像以上にありがたいことです。

現在、準決勝まで進めなかった漫才師の準々決勝のネタのみが配信中ですが、この至極の漫才が数十組も観られるのは圧巻の一言。

ネタを観ていると、やっぱりM-1グランプリは別格に激アツだと改めて思うのですが
その中で…


スリムクラブの漫才はエグかった。

これは観てください。

大会は進行中なので、あまりこういうことを言うのはやめておこうと思ったのですが、さすがに面白すぎた。
そんなことを、この場で書くつもりは一切なかったのですが、これは書かざるをえません。

腹がちぎれるほど笑えます。

たしかに、これまでもスリムクラブはずっと面白かった。
独特の間を駆使した、一度見たら忘れられない世界観。
『ワードセンス』とは表現しきれないほどに
言葉の力が突き抜けている。
ワードセンスよりも、『パンチライン』と言う言葉が適切かもしれません。
一語一句に衝撃が乗っかっています。

今回の2020のM-1準々決勝の漫才…

本当に本気やったんやなあ…と、単純に感じます。
なぜか、少し泣きそうになるくらい強い意志を感じざるをえませんでした。

スリムクラブは、すでにM-1で人生を変えています。
2010年のM-1決勝をキッカケにスリムクラブは世の中に解き放たれました。


あれから10年。
ラストイヤーとなったスリムクラブの最後のM-1での漫才はスリムクラブM-1史上ベストパフォーマンスだったと思います。

もう一発、人生を変えられる漫才…

そんな可能性をひしひしと感じる渾身のネタだったはず。

それでも超えられない壁があり、残念ながら準決勝通過はしませんでした。

何度もM-1に出ているスリムクラブは既視感とも戦わなければいけませんが、そこで一歩足らないと判断されたのかもしれません。


結果はどうであれ、この漫才の素晴らしさに一点の曇りもなし。

とにかく、面白いことをひたすら喋っています。
真栄田さんはずっとゾーンに入って、ひたすらに笑いのツボをズバズバ刺してきます。
内間さんもずっと面白い顔とリアクションをしながら、返す言葉がいちいち笑いを増幅させます。

しばらく、忘れられない漫才なのかもしれません。
表現が的確か分かりませんが、どこかスピリチュアルな空気さえも漂わせる2人の話芸。

漫才は本当にシンプルな演芸です。
真ん中にマイク一本あって、相方としゃべるだけ。
賞レースは時間制限こそありますが、ルールはあるようでなし。

テクニック面や構成の巧みさ…
こういった技術が面白さを増長させていれば、加点となる場合も当然あります。

もちろん、私だって10年以上のキャリアがありますので、そのへんのことは理解しております。

しかし、理屈を超えた漫才も時にはあります。

いわゆる、ネタの寸評を求められても言いようがないやつ。
「まあ…とにかく、めちゃくちゃ笑いましたね」
しか言いようがないやつ。

それでした。スリムクラブのネタは。

あそこまで間をゆったりさせて丁寧にふってふって期待させといて…超えてくる。
なかなか、超えられないハードルをきちんと超えてくる。

そればかりではなく、やはり言い方の妙。

あの言い方は良い意味でズルい。おもろすぎる。

稚拙な話をしていると思わせといて、実は深いのか…?
虚実入り乱れる空気感とネタ運び。
さりげなく世の中に斬り込んでいるようで、ふざけまくっている。
ふざけまくっていると思いきや、何かしらのメッセージも感じる。

そして、なぜか笑わずにいられない。

唯一無二だ。こんな漫才できるはずがない。

最後の最後に現実に直面している問題とリンクさせてネタを終える、あの漫才の締め方も私の好みだ。

もしかすると賞レースにおいては賛否あるのかもしれないが、私は好みだ。

現実の話に切り替わり、ネタを終える瞬間、夢から覚めたような感覚になる。

「いったい、何を見せられてたんや…?」
オリジナリティなんて言葉では追いつかない。

もちろん、このネタがM-1グランプリ決勝の舞台でハマるかは分からない。

M-1は予選の段階から魔物が住んでいますが
決勝の現場は、それどころの騒ぎではない。

「準決勝の時と別ネタなのか…?」
全く同じネタなのに、そう思わせないほど得体の知れない圧がかかるのが決勝の舞台。

それがM-1グランプリであり、それこそがM-1グランプリの魅力でもある。
あの審査員の面々にマジマジと漫才を見られている中、下馬評通りに勝敗が決まるほうがめずらしい。
芸事の厳しさや尊さの何たるかを理解していれば理解しているほど、誰だって縮み上がって当たり前。
やはり、M-1グランプリの決勝に権威と緊迫感を与えているのは審査員。

純粋なお笑いライブとして考えれば、M-1は準決勝が1番面白い。
もちろん、緊張感もあるが決勝のそれとは雲泥の差。
漫才師のベストパフォーマンスは準決勝で見られるほうが多い。

それほどにM-1の決勝は恐ろしすぎる舞台なのだ。


実は、かなり前に1度…

スリムクラブのお2人とM-1のことについて話したことがある。

こんなことを勝手に言っていいのか分からないが…

そのネタへの向き合い方は独特だった。

考えるのではなく言葉を降ろしてくるような…
そんな雰囲気を感じた。

心の中に降ってくる言葉を解き放って笑わせる。

漫才との向き合いかた。M-1との向き合い方。

スリムクラブとネタの話をするのは、かなり緊張した。

絶対に安易なことは言えない。そんな記憶がある。

何を面白いと思って日々生きているか?
それが明確にある芸人さんは強い。

もちろん、寄せることだって難しい。
客ウケを狙って、本当にウケることだって
とてつもなく難しいことだ。

しかし、何を見たいのか?と言われれば
何を求めているのか?と聞かれれば

芸人さんが本当に面白いと思っている本音を共有したい。

しょせん、私の個人的な好みだが

たかが好み、されど好み。

 

まだ、ワイルドカードが残っておりますので
最後のM-1を諦めるのは早いのかもしれません。

でも、もし、ダメだったとしても
M-1グランプリ2020準々決勝で見せたスリムクラブの漫才は衝撃を残しました。

やっぱり、芸人さんが問われるのは板の上です。
僕は板の上で輝く人を尊敬します。

さらに、「こんな発想どうやって思いついたん…?」
そう思わせてくれる芸人さんのことは、もっと尊敬します。

腸に備長炭を入れるためのクラウドファンディング…?
うーん、おもろすぎるなあ。
やっぱり、準決勝で観たいぞ!

 

お笑い界のラスボス 兵動大樹

本当に素手で殴り合ったら誰が1番強いのか?

男の子なら一度は考えたことがあるかもしれない。
時代を超えて、今昔の格闘家やプロレスラーなどで考えてみたりするシミュレーション。
人それぞれに答えと見解がある。

マイクタイソン?ミルコクロコップ?アントニオ猪木

そんな遊びがある。

さあ、それをお笑い界で当てはめたらどうなるだろう?『笑い』という名のリングにおいて、素手で殴り合ったら誰が1番強いのか?

兵動大樹

f:id:yujiliko:20201120083258p:image

関西を中心に活躍している漫才コンビ矢野兵動のボケを担当している兵動さん。

あくまで持論だが…
武器を持たず、お笑いの筋肉だけを駆使して殴り合った時、最後まで立ち続けているのは兵動さんではないだろうか。

あくまで持論。されど持論。

これはおそらく兵動さんで間違いない。
その理由…本音で切り込みます。

その答えは、芸人兵動大樹の真骨頂が存分に見せられるライブにある。

『おしゃべり大好き』というお笑いライブだ。
シンプルに兵動さんがステージの上で90分〜120分を1人でしゃべり続けるだけのトークライブ。

 

これ以上はないシンプルさ。
兵動さんが持っているのはペットボトルの水のみ。
1人ステージの上で、ひたすらしゃべり続けるのだが、観たことのない人は騙されたと思って1度観てほしい。

このライブを観て笑わずにはいられないはずだ。

いつも客席は揺れている。そして、ドカドカ笑い声が響き渡る。
ここで注目すべきはウケの量ではなくウケの質。

兵動さんの話は老若男女笑える話が90%を占める。
毒の要素や人に不愉快な思いをさせる笑いは、ほぼ皆無。

そう説明すると、丸みを帯びた笑いだと勘違いをされる場合もある。
たしかに、老若男女に刺さる笑いに尖った要素は少ない。
本来なら観る人を選ぶ笑いにこそ刺激があるものだ。

しかし、兵動さんの広く刺さる笑いに丸みは帯びていない。
なのに、老若男女が腹を抱えて笑う。
これは奇跡のバランスで成立している唯一無二の笑いの形。

感度の高い場所にボールを投げ込んでいる。
感度の高さゆえ、本来なら誰もが笑えるものではない。
それなのに、誰もが笑える不思議。

これは非常に例えが難しいのだが、映画バックトゥザ・フューチャーに近いと私は持論を掲げている。

バックトゥザ・フューチャーは屈指の名作として映画史に残る作品だが、好きな映画を聞かれて「バックトゥザ・フューチャーかな」と答えると、少しナメられる空気がある。

その背景には
誰もが知る、とてつもないメジャー感。
そして、あまり映画を観ていないのでは?と推測されるほどに、多くの人が好きな映画として挙げる定番になりすぎている。
それゆえ、バックトゥザ・フューチャー好きは映画通と認定されない作品だと思われてしまうが…実際は逆に当たる。

バックトゥザ・フューチャーは、目利きの映画通から相当高い評価をされる映画だ。
実はバックトゥザ・フューチャーをバカにする人ほど恥をかく。それは映画に無知だと公言しているようなものだ。

大衆を魅了しながら目利きの人間にも刺さる。
これが兵動大樹という芸人の話芸である。

兵動さんは日常にある何気ない場面を切り取り、半径500メートルの話を、巧みな話術と職人レベルの構成力で笑いに落とし込み続ける。
聞いてる側の共感を誘いつつ、絶妙な裏切りと展開力で笑いを量産する。

話のベースは巻き込まれ型が多く、兵動さんが予期せぬ事態に巻き込まれながら抜群のテクニックと独特の表現で笑いへと変化させるパターンが多い。
綺麗にエピソードを描いてオチに向かうだけではなく、感覚にうったえかける笑いも多い。
この『感覚の共有』は実に繊細であり、観る側にも高度なレベルを要する。

感覚にうったえかける笑いは本来、観る人を選ぶ笑いである。
実際、「感覚で分かってもらいたい」という笑いを表現する芸人さんは大勢いる。

それゆえ、当然だが「好きな人は好き」「合わない人には合わない」
良い悪いの話ではなく、必然的にそういったジャンルの笑いにはなる。

しかし、兵動さんが繰り出す話は、感覚にうったえる部分さえも観る人を選ばない。
『離れ業』と言ってしまえばそれまでだが、細かく分析すれば理由はある。

その理由は兵動さんの人柄。

芸人兵動大樹の前に、お客さんは人間兵動大樹を見ている。いや、見ずにはいられない。
人間性の奥行きや、根っこにある性格。
これらは芸事の基盤にある。
しかし、この人間性の部分はステージで何かしらを表現したからといって、必ずしもお客さんに伝わるわけではない。

人間性が伝わらなくとも、芸人のパフォーマンスでお客さんは笑う。
そりゃそうだ。お客さんは芸を求めて芸人を観に来ている。
ネタのクオリティやテクニック、話術等々で人を笑わせることは可能。

"人"の部分は芸事の基盤にあっても、人間性が伝わることは笑いをとる上でマストではない。

だが、兵動大樹のおしゃべり大好きは普通のお笑いとは少し違う。

人間兵動大樹が先にあり、まず人間としての兵動さんのことが好きになってしまう。
極論だと思われるかもしれないが、人間としての兵動さんを好きになれない人は客席に皆無。

「全員が全員なんてことはないのでは?」
そう思われるかもしれないが…
全員が全員と言って過言ではない。兵動さんの場合に限っては。

人間性の素晴らしさと温かさが圧倒的。
至ってシンプルな理由。
心根の綺麗さ。
悪い人を見破れない人は多くいるが、本当に良い人は、なぜか分かる。

観ている側が人間として好きになっているベースありきで、兵動さんは感度の高い笑いを時折入れ込む。感覚にうったえる笑いを次々と放り込む。
だからこそ、何の引っ掛かりもなくスッと伝わり、自然に笑い声を生む。
なぜか観る側は兵動大樹という人間性の共有が先にできてしまうのだ。

この強さは何事にも変えがたい。

その上に、兵動さんは綿密な流れ、独特な感性を武器に、美しいまでにエピソードの放物線を描き切る。

誰もが納得せざるをえない話術と構成力。
大人も子供も関係なく、観る者は全員ステージにいる兵動さんの話の魔力に吸い込まれる。

ここまでの要素が揃って笑えないはずがない。
人間性×技術×感覚の鋭さ。

先ほど、バックトゥザ・フューチャーの例えを出したが、『好きな映画』『良い映画』の定義とよく似ている。

映画の良し悪しを決める基準は人それぞれだが、観客が物語に乗れるか乗れないかの要素は大きい。
映画のストーリーの重要さ。
それは誰もが理解できるところだが、それ以前に登場人物を好きになれるかどうかは大きな鍵になる。

特に主人公のことを好きになってしまえば、その映画は自分にとって良い映画となる可能性は高い。
逆に言えば、主人公のことを最後まで好きになれなければ、いくらストーリーには乗れても好きな映画にはならない。

おしゃべり大好きというお笑いライブは、映画を観る感覚に近い。

まず、兵動大樹という主人公に乗れるかどうか?
先述したとおり、全員が乗れる。全員が好きになる。
そして、ストーリーは絶品。語り口も描き方も別格。

まさに良い映画のお手本…
一種の感動的映画体験を笑いのステージに置き換えたのが、おしゃべり大好きなのかもしれない。

『おもしろさ』も絶品だが、それ以上に『好き』だと胸を張って言いたくなる作品。

しかし、一言で簡単に人間性の良さに惹かれると言われても、そこの基盤には何があるのか?

兵動さんは今年で50歳になる。
勝手なことは言えないが、兵動さんの芸人人生を劇的に変えたのがおしゃべり大好きなのは間違いない。

そのおしゃべり大好きをスタートさせたのは兵動さんが30代半ばの頃。
決して若いとは言えない年齢で、この1人しゃべりのライブは始まっている。

その記念すべき1回目のライブの中で兵動さんは、こんな言葉を残している。

「自分のことを好きになりたくて始めた」

自分のことを好きになるため、1人でステージに立った。
1人でしゃべる以外、仕掛けも何もない。
そこにあるのは素手で挑む、むき出しの戦い。
自分自身と徹底的に向き合い、自分自身と真剣に戦う。
兵動さんが30代の半ばで選んだのは潔さだけで形成された真っ白なリング。

誰でも理解できるが、たった1人で90分〜120分しゃべり続ける作業は尋常ではない。
逃げ場はない。誰かのフォローもない。
そんな過酷なリングで15年戦い続けてきた歴史。

陳腐な言葉になるので申し訳ないが、ここにあるのはひたすらな『努力』
報われるか報われないかは分からない不確かな未来を手繰り寄せるための血の滲むような『努力』

才能やセンスは確かに重要。
お笑いの世界は努力したからといって成功につながる保証はない。

さらに、「努力なんて人に見せるものではない。」
そんな言葉もある。

だから、お笑い芸人にとっての本当の正解など誰にも分からない。

でも

結果的に努力の足跡がうっすら見え隠れする瞬間。

結果論として見え隠れする努力の痕跡。

これ見よがしなアピールでもなく、努力が全面に出ているわけでもなく…
うっすらとボンヤリ見えるような気がする雰囲気。

兵動さんの背後に見え隠れする積み重ねてきた足跡こそが、誰にも真似できない唯一無二の人間力を作り上げる。
そして、そういった人間力もふくめて芸であり、我々は無意識のうちに心を打たれる。

何をしゃべるかではなく、誰がしゃべるか。

人の心を動かす最終形態はここにある。

兵動さんが積み上げてきた歴史。そして、生き様。

芯のブレない男が繰り出す言葉の1つ1つには魂が宿る。
兵動さんは大勢のお客さんを相手にしているが、常に1対1の姿勢を崩していない。
お客さんの1人1人に向けて、丁寧に話を紡ぎ出す。
この繊細な気持ちと行き届いたサービス精神。
それは自らの芸事と向き合う経験を積み上げ、丁寧に1つ1つのステージを構築してきた歴史が生んだ答え。

人は人生の途中に生まれ変わることができる。

兵動大樹という人間は、それをステージの上で体現している。

だから

信念を貫き通す男は最終的に勝ち残る。
みんなが倒れようとも最後まで立ち続ける。
たとえ判定勝ちだとしても、必ず最後に勝ち名乗りを受ける。

リングの上で生き残るのは

ひたすらに己と向き合い
面白いことをしゃべるためだけに
長時間命を削ってきた男だ。

我々は突如として、新型コロナウィルスという得体の知れないものと今もなお戦っている。
まだまだ何がどうなるか分からない。
未だかつて経験したことのない非常事態と直面している。

ここで言えることは、お笑いもエンタメも圧倒的に無力だという真実。
全ては余裕があってこそ。
絶望的な気持ちを抱えて楽しめるエンタメなど、この世には存在しない。

だけど…
もしも…もしも

「少しでも笑いたい」「少しでも元気に…」

そう思っている人がいるならば…

兵動大樹のおしゃべり大好きに救われる人は必ずいます。
笑えることの尊さ、美しさ。
人生はつらいことばかりじゃない。

いつもラスボスは強く優しく

そして、おもしろい。

自分のことを好きになるためのヒント。

兵動大樹のおしゃべり大好きが教えてくれます。

お笑い界=ヒップホップ説

ラップを駆使してお互いを罵り合うMCバトルが若者を中心に流行りだしてから、もう数年は経つだろうか。

フリースタイルダンジョンが地上波でレギュラー放送し、BSスカパーのBAZOOKA高校生ラップ選手権の盛り上がりなどがバトルブームの火付け役だと思われるが、それをキッカケに日本のヒップホップというジャンルが堂々と市民権を獲得したと言える時代になった。

今回、ここで論じたいのはお笑いとヒップホップの共通点についてである。

ナイツ塙氏の漫才考察本「言い訳」の中で、関西の漫才はロック、お笑いコンビオードリーの漫才はジャズと例えた一文があった。

それを見て思い出した。
そういえば、筆者はお笑いの世界とヒップホップに類似点が多いと感じたことがあった。

お笑いの世界には多少精通しているが、ヒップホップの分野に関してさほど詳しいわけではないので少しの不安要素はあるが、自分の頭の中が果たしてどうなっているのかを整理する意味も兼ね、お笑い界=ヒップホップ説の構築にチャレンジしてみようと思う。

まず、今流行りのフリースタイルのMCバトルに求められているスキルはアンサーの即興性。
これは相手から言われたディスに対して、即座にアドリブで返すことを指す。

この臨機応変に対応できるフリースタイルラップの能力は、芸人におけるフリートークである。

ネタや大喜利のセンスとも全く違うフリートークの力量は、芸人の地肩がモノを言うことが多く、お笑いのスキルにおける基礎中の基礎だと筆者は考える。

相手がしゃべった言葉に一瞬の間で反応し、面白く打ち返す笑いの反射神経。
自ら提供する話題の切り口も興味深く、それでいて話の展開を無限に広げ、その場のおしゃべりだけで笑いへ変えていくのがフリートーク

ちなみに、ラップバトルではバトル前にあらかじめ考えてきたリリックを使ってラップすることに対し「ネタを仕込んできた」と相手を揶揄する風潮があるが、これはお笑いにおけるエピソードトーク

エピソードトークというのは何をしゃべるのかを事前に準備し、ある意味万全の状態でお話を披露することを指すのだが、これは「引き出し」という言い方もでき、お笑いの世界においてネガティブなニュアンスで使われることは少ない。

だが、完全フリートークの場で、あまりにも出来すぎた話を披露すると、「おまえそれ最初から考えてきたやろ!」というイジりが入ることもあり、この現象が「ネタを仕込んできた」とラップバトルで揶揄することと、ほぼ同じ意味に当たる。

そして、もう1つフリースタイルラップバトルの重要な要素と言われるパンチライン

これは勝負を決定づける印象的なワードをラップの中に落とし込むことを指すのだが、これはフリートークにおけるオチである。
フリートークでもエピソードトークでも、オチの強さが大切なのは言うまでもない。

ちなみにラジオが面白い芸人はフリートークの能力が高い。
フリースタイルラップの巧者は芸人で例えるところのフリートーク巧者だという筆者の勝手な説ではあるが、フリースタイルラップの絶対王者としてフリースタイルダンジョンで2代目ラスボスを務めるCreepy NutsのR-指定氏がオールナイトニッポンのパーソナリティとして好評を得ているのは、この説を踏まえると偶然だとも思えなくなってくる。

f:id:yujiliko:20201119190630j:image

R-指定氏の瞬間でひらめくアドリブ力とトンチのきいた即興ラップ、そして、抜群のタイミングでパワーワードをオトしてくるパンチラインの強さは芸人で例えると南海キャンディーズ山里氏だと筆者は決めた。
返しのワードセンスやトークにおける絶妙な構成力。ズバ抜けたフリートークの達人である。

f:id:yujiliko:20201119190725j:image

そして、ヒップホップを語る上で絶対に忘れてはいけない要素、それは韻を踏むこと。
ラップしながら母音を合わせていく、いわゆるライミングというやつだ。

このライミングが当たり前のようにできるかどうかがラッパーかそうでないかを隔てると言って過言ではない。(たぶん)
そして、ラップ=韻を踏むという決まり事は、アメリカのヒップホップからの流れを踏襲した文化的一面もあると思う。(たぶん)

ようは、きちんと韻を踏んでラップする人はラッパー認定され、その暗黙の了解は文化的に受け継いだ面もあるという私なりの解釈だ。

これは芸人で言うところの漫才やコント、いわゆるネタである。

韻を踏むラッパー同様、ネタをやっていれば基本的には芸人認定である。
そして、漫才もコントも今まで先人たちが辿ってきた道を踏襲したお笑いとしての文化的一面もある。

何より技術的なことやクリエイティブ能力がモノを言う部分であり、お笑いのネタはそう簡単に書けないし、そのネタを演じて表現することも素人にはなかなか難しい。

それはラップも同様で、韻を踏むこととダジャレは紙一重であり、上手に踏めばライミングで、下手に踏めばただのダジャレだ。

つまり、できているようでも不恰好ならば親父ギャグのようにサブい認定されるところまでライミングとネタは似ているのである。

ラップの韻の固さで定評があると言えば、ICEBAHNのFORK氏。

f:id:yujiliko:20201119190807j:image

経験に裏打ちされた技術と完成度の高さ。
そして、決して熱くならずクールに韻を踏み倒す様は芸人で例えるところのバカリズム氏だと勝手に決めておこう。
ネタの魔術師であり、天才的角度から冷静に笑いの爆弾を落とし続ける職人である。

f:id:yujiliko:20201119190845j:image

韻を踏むことにプラスして、ヒップホップを語る上で避けて通れないものがフローである。

フローとは聞き馴染みのない人が多いかもしれないが、ラップをする上での歌いかたのようなものだ。
ようは、そのラッパーのリズムの取り方や節回し、ラップの仕方そのものがフローという考え方で大丈夫だろう。

そのフローに求められるのは、何と言っても格好良さだ。
ヒップホップに興味のない人間さえも振り向かせる魅力は、歌い回しのスタイリッシュさや万人に受け入れられるキャッチーさ次第だと言える。

これは芸人で言うところの、華や好感度だ。

芸人は当然人気商売であり、どれだけ面白くても人気がなければ世に出ることは難しい。

放っておいても人気が出てしまう華や好感度を理屈で語るのは難しいが、大衆のハートをなぜか掴んでしまうポップさと佇まいから湧き上がるオーラは、数多いる実力者たちをもひれ伏させる力がある。

これは、耳馴染みの良いキャッチーなフローでラップを気持ちよく乗せて、いつのまにか大衆の支持を得てしまうラッパーと同じなのだ。

ヒップホップ界で、歌い回しの気持ち良さと心地よいリズム感を武器にビッグヒットを生み出す、その代表格はKREVA氏だ。

f:id:yujiliko:20201119190924j:image

とにかくKREVA氏は日本のヒップホップ界の中で売れた。紅白歌合戦にも出場した純然たるヒップホッパーだ。
それでいて、フリースタイルにも強くバトルの実績も十分。

そして、その世間への刺さり具合とスター街道を真っ直ぐ走っていく王道の売れ方は、芸人で言うところのナインティナイン岡村隆史氏である。
華があり人気があり、テレビタレントとしても超一流。
売れ続けるスターの資質を持たされた神に選ばれし芸人である。

f:id:yujiliko:20201119190956j:image

さあ、ここまでは音楽的技術論に偏った話が多かったがヒップホップは音楽的側面だけが全てではない。

文化としてのヒップホップである。

黒人のカウンターカルチャーとしてアメリカで発祥したヒップホップ文化を日本へ持ち帰り、B-BOYファッションに身を包みながら日本の音楽シーンに一石を投じ風穴を開けた。

J-POP、ロック、アイドルなどで溢れかえる日本の音楽シーンに、アメリカのラップ文化を持ち込みジャパニーズラップのシーンを開拓する1つの革命を起こしたのだ。

その先駆者の1人として日本のヒップホップシーンを今なお先頭で走り続けているラッパーと言えば、Zeebra氏で異論はないだろう。

f:id:yujiliko:20201119191033j:image

Zeebra氏がアメリカのヒップホップ文化を持ち込み、日本の音楽シーンに新しい畑を作った。

これは芸人で言うところの、発明である。

芸人における発明とは、新しい笑いの形を常に模索し、今まで見たことのない刺激を世間に届けると同時に、その新しいお笑いの形がのちに大衆のスタンダードへと変化していくほどのパワーを持つことだ。

彼の出現によって、お笑い界は実に大きな転換期を迎えた。
ダウンタウン松本人志氏である。

f:id:yujiliko:20201119191107j:image

独創的かつ作家性の強いコントや漫才。
刺激的かつ感度の高い笑いを追求したバラエティー企画の数々。
そして、現代にまで続く大喜利の新たなシステムを考案。

知っていただろうか?
今、ほとんどの芸人がやっている、あのフリップに答えを書いて読み上げながら出す大喜利の形を生み出したのも松本氏なのだ。

ダウンタウン以降の芸人のほとんどが松本氏の影響を1%も受けずに芸人を志すことは、もはや物理的に難しいとまで言っていいだろう。

この後輩に対する影響力の大きさもZeebra氏とリンクするところがある。
Zeebra氏を知らずしてラップを始める人も、ほとんどいないと推測される。

そして、今ではお笑い界全体を、ヒップホップ界全体をさらに発展させるべく、2人が業界全体のオーガナイザー的役割になってきているのも共通点だ。

並外れた統率力と強引なまでに時代をも変えてしまう強固な力。

お笑いの世界もヒップホップの世界も同じ。
常にカリスマは最強なのだ。

そして、ヒップホップで最後に挙げておきたい絶対的に不可欠な要素はメッセージ性だ。

リリックを書きトラックにラップを乗せ、音楽として昇華させる。
これはヒップホップにおける作品性であり、メッセージだ。

この作品を通したメッセージこそが我々とヒップホップの架け橋となり、ライブに足を運ぶ新たなファン拡大へとつながっていく。

音源でもいい。ライブでもいい。
この言葉を伝えたい。
言葉や生き様から何かを感じてほしい。
ヒップホップとはそういうものだと筆者は思う。

このヒップホップにおけるメッセージ性とは、お笑いで言うところの説得力なのだ。

説得力とは何かと曖昧に聞こえる言葉かもしれないが、これはお笑いを語る上で非常に大切な要素だ。
説得力とは、今まで歩んできた道のり、越えてきた苦労、ブレずに走ってきた信念、その他諸々の過去がバックボーンとしてその人自身に張り付くことを意味する。

だから話を聞ける。
だから心に入ってくる。
だから、安心できるのだ。

これは能力やセンスを遥かに超越する唯一無二の財産であり、笑いに包容力をも与える不思議なものである。

そして、ヒップホップ界のメッセンジャー代表は、30年にも渡って日本のラップ界をトップランナーとして走り続け、爆発的盛り上がりを見せるライブパフォーマンスでキングオブステージとも異名を持つライムスターである。

f:id:yujiliko:20201119191202j:image

MCを務める宇多丸氏に至っては音楽界だけでなく、サブカルチャーや映画界など様々な分野においても影響力を発揮する存在である。

何より長きに渡りトップランナーに君臨し続ける普遍性。
それはさながら芸人界におけるビッグ3だと言って過言ではないだろう。

f:id:yujiliko:20201119191241j:image

誰もがご存知、明石家さんま氏、タモリ氏、ビートたけし氏である。

奇しくも宇多丸氏はタモリ氏と同様、サングラスがトレードマークになっており、映画界に精通する部分はビートたけし氏と同じである。

そして、ライブを明るく盛り上げるサービス精神は明石家さんま氏と共通した部分であり、ライムスターの持つインテリジェンスさとシニカルな側面、そして人々をハッピーにさせるパーティー感にもビッグ3との接点を感じる。

お笑いの世界もヒップホップの世界も、いかに分厚い説得力を身につけて生き残れるかが最後の聖戦なのだと結論づけよう。

さて、お笑い界=ヒップホップ説はいかがだっただろうか。

多少ムリヤリ感がないわけでもないが、共通する部分を少しでも分かってもらえたら幸いだ。

実は、この説を思いついたキッカケは、ヒップホップにサンプリングという文化があるというのを知った時だ。

サンプリングというのは、過去にあった音源や歌詞の一部を抜粋して引用することで、知らない人からすれば、それはパクリじゃないの?と言われてしまう文化でもある。

しかし、これは基本的にリスペクトの気持ちを込めたオマージュで、同業界の先人たちや過去の音楽にスポットライトを当てながら自分を表現する手段として、ヒップホップ界では当然のごとく存在するものだ。

実はお笑い界でもサンプリング文化というものは存在し、敬意を込めて尊敬する先人のギャグをやったり、誰かの影響下で笑いを作る場合はある。

もちろんパクりはいけないが「自分で何もかも考えました」「全てがオリジナルです」という顔をしている芸人に限って、薄っぺらいものを披露しているのも一方で事実なのだ。

何より、偉大な功績を残してきた先人に対して「古い」「時代錯誤」などと言っている人たちが生み出すものでは笑えない。

お笑いもヒップホップも歴史は脈々と受け継がれ、現在に至っている。

 

その美徳はまさに人間固有
偉大な歴史的モニュメント級
つまり
ご先祖たちの探求に一個付け足す独自の
ブランニュー
とかく侮りがちな
ミーとユーとユーとユーたちに喝入れる直球


ライムスター K.U.F.U